灯籠流しの灯の傍で

「もう来るなよ。」
 看守が低い、だけど強い意志を込めた声で言った。
 龍は静かに頭を下げると一人、堅牢な門を抜けて土砂降りの中を行く当てもなく歩き出した。
 冷たい刑務所の門を振り返る事もなく。
 外は冷たい雨がまるで、今までの彼の罪を洗い流すかのように静かに、ただ静かに降りしきっていた。




 「逢いたい」




 数日前に届いたその手紙を、龍は雨の中傘もささずにじっと見つめていた。

 数日前・・・出所間近の彼の元に一通の手紙が届いた。
 差出人の名は「北原 織恵」。
 彼の幼なじみだった。
 住所は懐かしい、遠い南の島。
 その手紙の中にはただ一言、小さな字で

 「逢いたい」

 そう書かれていた。

 龍が本土を離れ、彼女の待つ島に向かったのはそれからまもなくの事である。

 


「ねえ龍くん、灯籠流し見に行こうか。」

 何年前の事だろう、彼女がそう言い出したのは。
 確か龍も彼女もまだ中学生だっただろうか、夏の終わりのことであった。
 龍の住む島は盆の終わりには必ず「灯籠流し」をする風習があり、その日も織恵の誘いで二人で灯籠流しを見に行く・・・はずだった。

 「お前となんか、見に行かねえよ。」
 そう言って、初めて彼女の誘いを突っぱねた。
 こんな事は中学生には珍しくない。
 周りの男子に冷やかされたのが悔しくて、龍は彼女の誘いを突っぱねて、結局その年の灯籠流しには行かなかった。

 それ以来、彼が織恵の姿を見る事はなかった。
 元来体が弱かった織恵はその後間もなく持病が悪化し、本土の病院へ行ったまま、それっきり帰ってこなかった。

 (生きてたんだ・・・)
 ぼんやりそんな事を考えながら龍は青い海の向こうに見える、懐かしい生まれ故郷を見つめていた。

 やがて港に船が着くと、揺れる足場に気を付けながら、龍は故郷の土を踏んだ。
 大きく深呼吸してみる。
 娑婆に出たときですらこんな事はしなかったのに、故郷の空気はあの頃と何も変わることなく彼を出迎えたのである。
 と。
 「島津 龍!」
 どこからか声がした。


声の方を振り返る。
 その瞬間目に入ったのは・・・

 真っ白なスカートが、風にはためいて揺れていた。
 それはまるでこの青い海に寄せる白波のように、空の青、海の青とのコントラストが美しかった。
 短く切った黒い髪も、抜けるように白い肌に映える。
 「元気そうね、本当に何も変わってないんだから!」
 無邪気に叫んだその声は、記憶の中に留まるそれよりも甘く落ち着いていて、龍の胸は静かに高鳴った。
 「織恵・・・」
 ぽつりと呟く彼の声は、彼女に届いていたのだろうか。

 「やっぱり龍くん、変わってないね。何か雰囲気が昔のまんまだもの。きっと街ですれ違ってもわかっちゃったよ?」
 やはりその声は無邪気で、少し意外にさえ思えた。
 かつて自宅があった方に・・・織恵の実家がある方に田舎道を歩きながら二人、他愛のない話をするが、昔から体の弱かった織恵のこと、持病が出るとすぐに体調を崩してしまう。
 そのことが龍は正直、少し心配だった。
 「・・・元気そうだな。」
 「うん。このところ特に調子が良くてね、龍くんもよかった、思ったより痩せてもやつれてもいないんだもの。」
 つん、と龍の鼻の頭を触って、織恵が笑う。
 が・・・
 「びっくりしたろ、ムショに入ったって聞いて・・・」
 ふてくされたような表情で龍が呟く。
 「うん・・・正直ね。でもね、そんなのもう終わったことだよ!これからは・・・」
 「人一人刺してるんだ、そう簡単に後戻りできるかよ。」
 低い声で返す。

 思えば不思議なことであった。
 東京に出て、悪さばかりして・・・初めて本気で好きになった女は実はやくざの女。
 信じてたのに裏切られたのが悔しくて・・・悔しくて悔しくて・・・思わずあの晩・・・

 「包丁で、ぐさっ、て・・・」
 ・・・刺してしまった。
 それ以来誰も信じられなくて、一人で不安な日を送っていたのに、織恵と合うと、その辛さがほどけて行くみたいで・・・

「本土は怖い所なんだね、でもね、きっとそんな人ばっかりじゃないよ。」
 「どうでもいいや。」
 「どうでもよくない、そうやって投げやりになるの、龍くんの悪いくせだよ。」
 思わず黙り込む。
 そうかも知れない。
 昔から都合が悪くなると黙りを決め込んで、すぐに投げ出してしまうのが彼の性分だった。

 ようやく田舎道から人里にはいると、途端、見慣れた景色が視界いっぱいに飛び込んでくる。
 「島袋のおばあ、元気か?」
 龍が、初めて自分から口を開いた。
 島袋のおばあと言うのは、龍と織恵の面倒をよく見てくれた老婆のことである。
 「うん、凄く元気だよ。」
 「そうか・・・」
 急に何もかもが懐かしくて、龍は複雑な気持ちに駆られて下を向いた。
 そうしているうちに・・・

 「ただいま!龍くんもあがって!」
 ・・・少し古びた織恵の家の木戸は、あの頃と同じで、少し立て付けが悪かった。

「変わってないな・・・」
 龍がぽつりと呟いた。
 もう大分古い織恵の家はあの頃と何も変わっていない。内装、花瓶や絵、そして壁の傷や幼い頃二人で書いては叱られた落書き・・・龍はふと、その落書きの傍で、小さな頃の自分と織恵を見たような気がした。
 「はい、麦茶。暑かったでしょ?向こうはまだ梅雨が明けてないんだもんね。」
 台所からやってきた織恵が、盆に乗せた麦茶を龍に手渡す。
 ・・・ひんやりとした冷たい感触が汗ばんだ手のひらに心地よい。
 「ほんと、変わってないな。」
 「ふふふ、龍君さっきからそればっかりだね。」
 「だって・・・」
 織恵は笑って見せた。
 「でもね・・・今、この家、あたししか住んでないんだ。母さんは体壊して本土の病院に入院してるし、お姉ちゃんも本土で研修医やってるから・・・」
 「昌代さん、本当に医者になったんだ。」
 「うん。まだまだタマゴだけどね。」
 龍は俯いた。
 昌代とは織恵の姉で彼女とは2つほど歳が離れている。
 幼い頃から医者になりたいと言っていた姿がふと目に浮かんだ。
 「がんばってるんだな・・・」
 「龍君、また良くないこと考えてる。」
 はっとして、顔を上げる。
 すると先と同じようにつん、と織恵が龍の鼻の頭を触った。
 「そうやって落ち込んだりするとすぐ顔に出るんだもん、わかっちゃうよ。」
 「・・・」
 思えば昔から織恵にはこんな風に頭が上がらない龍である。
 そしてこうやってばつが悪くなると、
 「またそうやって黙っちゃう」のも龍の癖だった。

 「それにしても・・・どうして急に逢いたいなんて・・・お前・・・」
 ばつが悪くなって、龍が急に話を切り替えた。
 と・・・織恵は一瞬考え込むと、
 「あのね、今年も後5日ぐらいで灯籠流しでしょ?
 龍君がせっかく帰ってきたから、一緒に見に行きたかったの。
 ・・・あれから結局見に行けなかったでしょ、だから・・・今年は、大丈夫・・・?」
 急に怖々と伺うように龍の目をのぞき込んで織恵は言った。

 今まで胸に支えてきたものが胸から外れる音を、龍は聞いたような気がして・・・

 「あ、ああ・・・どうせ暇だし・・・行くか?」
 「ほんと?嬉しい、約束だよ?」」
 こんな風に笑った織恵を見るのは何年ぶりだったろうか、ともかく、龍はこの瞬間、何か重い物から解放されたようなすがすがしさを心の奥でしっかりとかみしめていた。

「龍君、朝だよ、ごはん出来てるから食べよう?」
 今朝は織恵のその声で龍は目を覚ました。
 島に戻ってきたものの、行き場のない龍に織恵が、
 「それならしばらくうちに泊まっていけば良いんじゃない?うち、今はお父さんの部屋も空いてるし・・・」
 言ってくれたのだ。
 「お前、嫁入り前の娘が・・・」
 年寄り臭いことを言いつつ、ついつい泊めてもらった龍である。

 「ちょっと待ってね、今ご飯よそるから。」
 台所でテキパキと朝餉の仕度をする織恵の姿を龍はぼんやりと上目遣いに眺めていた。
 台所に射す朝の光を受けた織恵の白いシャツが眩しかった。
 朝餉の湯気の薫り、ゆったりと穏やかに流れる・・・龍が何年も味わったとのなかった・・・時間。

 ・・・二人の時間。

 それが少し照れくさいような嬉しいような・・・赤い顔をして彼女の作ったみそ汁をすすった。

 「そうだ、龍君、今日は天気がいいから久々にどこか遊びに行こうか。」
 思わぬ織恵の提案に、思わず龍は飲んでいたみそ汁を吹き出しそうになった。
 嫌、とかそう言うわけではなく、あえて言えば恥ずかしい、だろうか。
 ともかくその申し出は、嬉しくはあるのだが・・・
 「なんだ、逆ナンか?」
 冗談ぽく言ってみた。
 「うん、逆ナン。子供の頃はいっつも龍君が誘ってくれたじゃない?だから今度はあたしが。」
 再び龍はみそ汁を吹き出しそうになった。
 「お前・・・ずいぶん積極的になったな。」
 「でも本当はこう言うのは男の子の方から声をかけなきゃダメなんだよ?」
 悪戯っぽく織恵が返す。

 龍は一瞬黙って・・・

 「わかった、わかった、それなら釣りにでも行くか?子供の頃行った山の中の川、まだあるだろ?」
 織恵は満面の笑みを浮かべて・・・
 「うん、釣り竿はね、前に父さんが使ってたのがあるから、それを持っていこうよ。」
 「いいよ、あんな立派な竿、いらねえよ。」
 「いいの。あれを持っていくの。」
 「・・・小鮒釣りだぞ?」
 「大物が釣れるかもよ?」
 屈託無く、織恵が笑った。

 「そいじゃ行くか。」
 食事と片付けを終えて、龍が玄関先で織恵を呼んだ。
 「うん、お弁当も持ったからね。」
 織恵が小さな風呂敷包みを見せた。

 もう何年も使ってなかったさび付いた自転車の後ろに、古めかしいブリキのバケツと、不釣り合いな釣り竿、そして・・・織恵と甘酸っぱい気持ちを乗せて、龍はペダルを踏み込んで、昔懐かしい河原へ走っていった。


 夏の陽気を含んだ森の空気をじりじりと蝉の声がさざ波のように震わせる。
 そんな夏の森の傍を流れる昔懐かしい川縁に、まるで空気を冷やすみたいに大きな水音が響く。
 「だから言ったじゃない!そんな奥の方まで入ったら滑っちゃうって・・・」
 織恵が言っても後の祭り、既に龍は川面にへばりつくみたいにうつぶせに伏せっていた。
 「あ〜あ、着替え持ってきてないのに!」
 「・・・タオルあったろ、俺が首からかけてたやつ・・・」
 「はいはい・・・でも、これで足りる?」
 織恵に言われて冷静に考えてみる。

 ・・・足りるわけがない。
 
 水深自体は大したことのないこの川でも、うつぶせに倒れた龍の体をすっぽりと飲み込むことくらい造作もないことだった。おかげで龍の体は頭のてっぺんからつま先までずぶぬれになってしまった。
 とぼとぼと川から上がってくしゃみを一つ。
 「・・・冷てぇ。」
 暗〜い目で呟いた。
 それを見て、織恵がくすりと笑う。
 「水も滴るいい男だね。」
 「・・・うるせえ。」
 「そうだ、なんなら今あたし、家に着替え取りに行ってこようか?」
 (それはいい・・・)
 と、龍は無言でうなずいた。
 それを確認すると織恵はすぐに傍に停めてあった自転車に飛び乗って、見る見る坂道を降って見えなくなってしまった。

 一人取り残された龍。しばらく何をするでもなく水辺に突っ立っていたが、やがてずぶぬれの体を申し訳程度にスポーツタオルで拭きながら、ゆっくりと川縁に腰を下ろした。
 ぼんやりと空を見上げ、ふと思った。
 この森もこの川も、昔と何も変わっていない。
 いや、川や森だけではない。織恵も昔と全く変わっていなかった。
 ・・・変わってしまったのは自分だけ。
 そう思うと急に寂しくなって・・・
 と。

 「龍君、お待たせ!早かったでしょ?思いっきり飛ばして来ちゃったんだから!」
 元気いっぱい手を振って、織恵が帰ってきた。
 「はい、これ。私向こう向いてるから着替えておいでよ。」
 真新しいタオルと着替えを龍に手渡して、織恵は言った。
 「ああ・・・サンキュ。」
 ぼそりと言って、言われるまま、森の方に着替えを持っていって、着替え始める龍。
 体に張り付く重いシャツを脱ぎ捨てると、ふと、顔を上げた。

 なんだ、俺、昔に戻ってるじゃん・・・

 「行って来る」と出ていった織恵を素直に待っている事が出来た。
 この島に着くまでは、人のどんな小さな言葉でも、すぐに不安になってしまっていた龍である。いつもだまされることに怯えていた龍である。
 それが今はこうして織恵の言うことを素直に、なんの疑いもなしに信じ切っていた。
 思わず、龍は俯いて、知らず知らずのうちの湧きあがる不思議な感覚に・・・おおざっぱに言えば喜びに、唇を噛んで笑いを堪えていた。

 帰り道はすっかり暗くなってしまって、あまり建物のないこの島では夜空に瞬く星も、くっきりと鮮明に浮かび上がっていた。
 「きれいだな。」
 珍しく切り出したのは龍の方だった。
 「うん。本土と違って、この島には電灯なんてほとんどないからね。」
 へへ、と織恵が笑った。
 「せっかくだから、灯籠流しの日もこれくらい晴れると良いのにな。」
 一瞬織恵は黙って、
 「・・・そうだね。」
 空を仰いで返した。

 その声が少しいつもより低い気がしたのは、龍の気のせいだったのだろうか。


 それから何事もなく日は過ぎ・・・
 龍の願いは聞き入れられなかったのだろうか・・・灯籠流しの前日だというのに、空は今にも一雨降り出しそうな曇天模様だった。
 「日頃の行いが悪いんだな、多分。」
 誰に言うでもなく、龍が呟いた。
 だが、気分は悪くない。
 「大丈夫、今夜降っても明日も降るとは限らないよ。」
 織恵の笑顔に支えられる龍である。

 「ねえ龍君、あたし、これから少し出かけてくるから。
 そんなに遅くならないうちに帰ってくるからね。」
 珍しく、織恵がこの曇天模様の中、一人出かけていった。
 別に出かけるくらいのことは珍しいことではないだろう。
 だがここへ来て龍は常に織恵と一緒だったので、
 「寂しくはある。」
 わけである。
 唯一の話し相手である織恵は今はいない。
 となれば自分でこの空白の時間を埋める策を考える必要があった。
 しばらく思索にふけった後、龍はふと立ち上がって表に出た。
 織恵は乗っていかなかったようで、自転車はそのまま停めてある。
 それにまたがると龍は昔懐かしい田舎道を一人で走り出した。

 「ああ、よかった、まだあったんだ・・・」
 一人ごちる龍がたどり着いたのは織恵の家から少し離れた小学校の裏にある大きな木だった。
 龍はその辺にある手頃な木の枝を拾うと、木の周りを何やら調べて回った。
 「あった。」
 龍の足がある場所で止まった。
 気の大きな幹に下向きに矢印が掘ってある。
 それを確かめると、龍は先程拾った木の枝でその根元を掘り始めた。

 龍の持っていた木の枝の先に、土中で何か硬いものが当たった。
 すぐさま木の枝を放り投げて、今度はその周辺を手で掘り起こす。
 「これだ!」
 喜びの声を挙げた龍の手には小さな小箱が握られていた。
 ・・・ブリキ製の小さな菓子の缶だ。
 そっとふたを開けてみる。
 さび付いていてなかなか素直には開いてくれなかったが、力一杯こじ開けると、ぱき!と小さな音を立てて缶が口を開けた。
 中に入っていたのは小さな薄紅色の貝殻だった。
 長い間土中に眠っていても、そのつややかな表面と美しい紅色は少しも薄れていない。

 あの夜・・・
 龍が織恵からの誘いを突っぱねたあの夜・・・本当は渡すつもりだった。
 自分の素直な気持ちと一緒に・・・「好きです。」・・・簡単だけど、素直な気持ちと一緒にこれを渡すはずだった。
 だけど、それができなかったから、それ以来織恵に逢うことができなかったから・・・こうしてこの木の根本に封印して置いたのだ。
 それを今紐解くことになろうとは。
 龍はその薄紅色の貝を大事にハンカチにくるんでポケットにしまうと、また自転車に乗って走りだした。


 「あれ、あんた龍かい?島津の所の龍じゃないかい?」
 帰途につく龍を呼び止めるしわがれた声が一つ、曇天模様の湿った空気を伝わって、風の音に交じってその耳に届く。

 振り返ると、そこにいたのはしわくちゃの貌をした小太りな背の低いだった。
 「島袋のおばあか!」
 懐かしくて、思わず龍は明るい声で老婆を呼んだ。
 「やっぱりそうだ、あんた龍だね、元気だったかい?」
 おばあも懐かしそうに龍を見た。
 島袋のおばあは前述にもあるように、龍や織恵の世話をよく見てくれた近所の世話焼きな老女だ。
 「いやあ、おばあも変わってないな、みんな元気か?」
 「かわってないのはあんたの方だ、戻ってきたなら戻ってきたと言ってくれればいいのに。
 今はどうしてるんだ?」
 「ゴメン、ついこの前なんだ、帰ってきたの。今は織恵の家で世話になってる。」
 「織恵ちゃんの?」
 おばあが怪訝そうな顔をした。
 「昌代お姉ちゃん帰ってきたのかい?」
 「いや、昌代さんは今いない、本土で研修やってるって。今は織恵と一緒なんだ。」
 おばあの顔から、サッと血の気がひいた。
 「あんた・・・それは確かに織恵ちゃんなんだろうね。」
 「当たり前だろ?何言ってんだよ。」
 おばあは俯いた。
 そして自分に言い聞かせるように小さくうなずくと、
 「それは何かの間違えだ、一昨年の春に織恵ちゃんは本土の病院で亡くなったんだ。」
 おばあが小さな声で呟くように言った。
 「な、何言ってんだ!俺は確かに・・・」
 「あたしにはわからん、でも、本当にもうここには・・・」
 おばあの言葉が終わらぬうちに龍は自転車に乗って走りだしていた。
 
 やがて空から一粒、また一粒と雨の粒が龍めがけて降ってきた。
 だがそんなことお構いなしで龍はペダルをこぎ続けた。

 やってきたのは、図書館だった。

 「すいません、一昨年の春の新聞、まだ取ってありますか?」
 鬼気迫る表情でカウンターの係員に詰め寄る。
 そして係員が出してきた新聞の束を一心不乱に読みあさった。

 龍の手が止まった。
 古びてかさかさになった新聞紙の上の小さな文字が、龍の網膜に焼き付いた。

「4月21日
北原織恵さん 享年24才」


 お悔やみの欄に小さく、小さくそう書かれていた。

 土砂降りの雨も、遠くで聞こえる雷の音も、今の龍には気にならなかった。
 ただ何を信じて良いかわからなくて、目の前の現実に呆然とした。
 きっと、龍は泣いていたのかも知れない。
 だがその自覚すら、今の彼にはなかった。
 そしてたどり着いたのは、いつもの場所。
 織恵と二人で過ごした、短いけど、暖かな想い出が詰まった彼女の家・・・

 暗く静まりかえった室内には、どこかもの悲しげな空気が龍を取り巻くように流れている。
 聞こえてくるのは雨の音と雷の音。
 だがそれすらも、今の龍の耳には入っていなかったのかも知れぬ。
 そして・・・

 「龍君・・・」

 聞き慣れた声がした。
 ふと振り返ってみる。
 仕切戸の影から、こちらを伺うのは、
 「織恵・・・」
 龍の目が彼女に・・・今ここにいるはずのない彼女に注がれる。
 「ごめんなさい・・・騙すつもりはなかったの・・・ただあたし、どうしても・・・」
 「もういいよ。」
 龍の声は、鉛のように重くよどんでいた。
 「なんだよ・・・なんなんだよ・・・結局・・また騙されたんじゃん、俺・・・馬鹿みてえ・・・」
 嘯いて織恵に背を向ける。
 「龍君!ちがうの、あたし・・・」
 「一緒じゃねえかよ!お前は騙したつもりはなくても、俺は騙されたんだよ!
 なんだよ・・・結局お前も同じなんだな、自分さえよけりゃそれで良いんだろ?
 俺の気持ちなんてどうだって良かったんだよな、結局は。」
 織恵から言葉は、帰ってこない。
 「せっかく・・・ようやくこれでいいって・・・思えたのに・・・やり直せると思ったのによ。
 もうしらねえよ、お前なんか。勝手にしろよ。俺は降りるからな。」
 「龍君!」
 織恵は必死の思いで龍の腕にしがみついた。
 が・・・
 「放せよ!」
 龍にふりほどかれ、織恵は力無くその場にはねとばされた。
 そんな織恵を顧みることなく、龍は土砂降りの雨が降りしきる表へ駆けていった。

 悔しかった。
 ただ、悔しかった。
 ようやく信じることができると思っていた。
 ようやく全てをさらけ出せると思っていた。
 だが、淡い期待は波間に揺れる水泡のように儚く消え去った。
 土砂降りの雨に濡れるに任せたその身は頭の先からつま先まで濡れそぼり、スニーカーの中では溢れんばかりに流れ込んだ雨水がじゃぶじゃぶと音を立てている。
 そんな龍がたどり着いたのは海に注ぐ川の上に架かった橋の上だった。
 どうやらかなり遠くまで来てしまったらしい。
 がくりと膝をついて、誰一人として人の通らぬ土砂降りの雨の中、龍は泣いた。
 腹の底から溢れる涙を抑えることができす、水たまりのできた橋の上の地面に座り込んで泣いた。
 ふと、ポケットの中をまさぐってみる。
 先程掘り起こしたばかりの薄紅色の貝殻がそこにあった。
 「くそっ!!」
 叫ぶと龍はそれを川に向かって投げ捨てた。
 小さな貝殻は水嵩の増した川の激しい流れにすぐさま飲み込まれていった。


 その日一晩、龍はなけなしの金で夕飯を買って、公園の屋根付きの休憩所で一晩を過ごした。
 ・・・織恵の家には戻らなかった。
 どうしても戻る気にはなれなかった。
 織恵がどうしているかは気になったが、今はそれ以上に自分の不安定な心を落ち着かせる方が先だったのだ。
 空は昨日の土砂降りが嘘のように晴れ渡っており、澄んだ碧が逆に龍の心の中の後ろめたさと虚脱感を増幅させるのだった。
 胸ポケットに入っていたタバコを一本くわえ、龍はそれに火を付けた。

 このまま島を出よう、ここに帰ってきたのがそもそもの間違えだったんだ。

 自分に言い聞かせて、龍はあてど無く町へ向けて踏み出した。

 昼過ぎの町中は既に今晩の灯籠流しの準備で賑わっていた。
 出店を出すために屋台の用意をするテキ屋、花火を買いに出かける親子・・・
 何もかもが昔と全く変わっていなかった。
 そう、何もかも。

「お前となんか、見に行かねえよ。」


 昔のように、織恵を突っぱねてしまった自分さえも、何もかも変わっていない。
 あれだけ後悔し続けていたのに、結局はまた同じ事をしてしまったのだ。
 そして、もうこんな思いをするのは懲り懲りだった。
 (明日、この島を出よう・・・)
 ゆっくりとタバコの煙を吐き出し、龍は心の中で呟いた。

 それからどれくらい歩いたのだろう。
 結局行く場所もなく、龍は夕暮れの公園へ帰ってきた。
 ベンチの上に腰を下ろす。
 そしてまたタバコを一本、加えて火を付けた。
 ・・・と。

 「ねえおかあさん、とうろうながし、いつ始まるの?」
 遠くで声がした。
 子供の声だ。
 声の方に目をやると、少年と母親らしき女が向かい側のベンチに座っている。
 何げなしに、龍は母この話に耳を傾けた。

 「そうね、まだ4時だから・・・8時くらいからね。夜になってからよ。」
 「とうろうながしって、どうしてやるの?」
 「お盆にはね、ご先祖様や亡くなった人達がこの世界に帰ってくるの。だからお帰りの時には灯籠を流してお見送りするのよ。」
 「そうなんだ。じゃあ、おじいちゃんは来てくれたのかな?」
 「ええ、きっと来てくれたんじゃないかしら。」
 「それじゃあ、おじいちゃんは今日かえっちゃうんだね。」
 「そうね、だからなおくんも、おじいちゃんをお見送りしてあげようね。」

 龍の手から、タバコが落ちた。
 そして何かに突き動かされるように龍は昨日の橋に向かって走り出した。

 これでいい訳がなかった。
 織恵はもしかしたら自分に逢うために帰ってきたのかも知れない。
 自分と灯籠流しを見るために帰ってきたのかも知れない。
 それは同時にあの日からずっと抱えてきた龍自身の悔恨を拭い去ることのできる、最後のチャンスだと言うことを示していた。
 そして今まで心にしまっておいた数多の思いを吐露する、最後の機会であることも・・・
 やがて川にたどり着いた龍は昨日貝を投げ捨てた箇所を記憶の昨日から洗い出し、濡れるのも構わずに水の中に入っていった。

 昨夜の大雨に流されたのか、貝殻はなかなか見つからなかった。
 気がつけば辺りは既に暗く、電灯のない中で、暗くよどんだ水の中からそれを探すのは困難を極めた。
 そして龍はあることに気がついた。
 向こうから少しづつ、少しづつ、だがいくつか、川面の上に灯りが見える。
 「始まった・・・!!」
 焦れば焦るほど、何も手に付かなくなってしまう。
 そして遂に龍は川の石につまずいて、そのまま水の中に倒れた。
 その時・・・

 月明かりは・・・雲の切れ間から射し込んだ、一縷の光はその可憐な薄紅色をくっきりと浮かび上がらせた。
 「あった!!」
 恥も外聞もなく、龍はそれを手に取るとすぐさま岸に上がり、ずぶ濡れのまま灯籠流しの始まった河原めがけて走っていった。


 冷たい夜の川に素足を浸し、織恵は一歩、川の中に踏み入れた。
 白いワンピースのスカートが、川面へ吹き下ろす風になびく。
 一歩、また一歩、織恵は川の中へと踏み込む。
 だが不思議なことにそれを止めようとするものは誰もいない。
 誰も彼女には気付いていない。
 いや、その姿も、見えてはいないのだ。
 臑まで水に浸かると、ふと、織恵は一瞬後ろを振り向いた。

 (いない・・・か・・・)
 再び目を伏せ、前を見る。
 目の前を、無数の灯籠達が流れていく。
 本当は、龍と一緒に見たかった。
 生前、この世に別れを告げるその最後の瞬間まで、本当はそう願い続けていた。
 一緒に見たかった。この無数の美しい灯籠を。
 そのことだけがどうしても悔しくて、悲しくて、どうしてもかなえたかった。
 だからこうして戻ってきたのだ。
 どうしてもかなえたい、この「夢」を叶えるために。
 だが結果としてそれは龍を苦しめただけで、彼女自身の願いも、最後まで叶えられなかった。

 「滑稽よね。」

 小さく笑って漏らして見せた。
 そんな彼女の前に、灯籠が一つ、まるで迎えに来たよと言うように、静かに流れ着いた。
 それを見て、織恵も灯籠の灯に手を伸ばした。
 ・・・これでみんなおしまい。もう戻ってくることはないだろう。
 
 (さようなら。)

 心の中で呟いた。
 そしてそっとその手を灯籠にかざした瞬間・・・






「織恵!!」







 聞き慣れた声がして、織恵はその手を引っ込めて、背後の闇に目を凝らした。
 ・・・誰かが走ってくる。
 闇の向こうから、自分の名を叫びながら、一心不乱にこちら目掛けて疾走してくる。
 「龍君!!」
 織恵も「彼」の名を叫んだ。
 「織恵!!」
 それは見間違いではなかった。
 全身ずぶ濡れで、泥だらけにはなっていた。
 だがそれは間違いなく、龍だった。
 やがて龍はざばざばと水をかきながら川に入って彼女の元までやってきた。
 「龍君!!」
 それを見て、織恵も水をかいて彼の元まで駆け寄った。
 「織恵!・・・よかった・・・よかった・・・!」
 息も切れ切れに龍が言った。
 その目は涙で潤み、体中は水をかぶったように濡れていた。
 「龍君・・・もう来てくれないかと思ってた・・・」
 今にも泣き出しそうな声で織恵が呟く。
 そんな織恵に龍はわざと笑って見せて、
 「これ、お前にやるよ。」
 言って何かを手渡した。
 「これ・・・きれい・・・」
 それは先程彼が死にものぐるいで探した、薄紅色の貝殻だった。
 「・・・本当ならもっと早くに渡したかった。あの・・・約束した夜に・・・ごめん。」
 織恵は首を横に振った。
 「いいの・・・嬉しい・・・」
 「織り恵、俺・・・」
 今度は龍がまっすぐに織り恵を見据えた。
 ・・・二人の視線が合わさる。

 「お前のことが、ずっと好きだった。
ずっとこのことを謝りたかった。ごめん・・・ずっと黙ってて。」
  織恵の瞳から、きらりと一筋流れた涙が、灯籠の灯を映して輝いて見えた。
 「あたしも・・・龍君のこと、ずっとずっと好きだったよ。」
 龍は何も言わずに織恵を抱きしめた。
 できることなら、ずっとこうしていたかった。
 だが、そうはいかないことも、二人はちゃんとわかっていた。
 そして・・・

 「龍君、ありがとう・・・あたし・・・」
 「いいよ、ずっとここで見てるから。」
 微笑みながら、龍は言った。
 その頬には織恵と同様に幾筋の涙が伝っていたが、龍はそれを拭おうとはしなかった。
 やがて一つの灯籠がそっと織恵のそばに流れ着いて・・・

 「時間だ。」
 龍が言った。
 それを織恵はうなずいて返した。

 「さようなら。」

 最後に微笑んで、織恵は灯籠に手を伸ばした瞬間・・・・

あとには無数の灯籠と龍だけが残された。
次々と流れていく灯籠達の灯が、儚い二人の恋を洗い流すように、静かに音もなく8月の川を滑っていく。
 龍は何も言わずに岸へ上がり、そして腰を下ろすと、いつまでもいつまでも流れ続ける灯籠達を眺めていた。


終章

それから二日後のことだった。
 「あら、龍君じゃない?」
 荷物をまとめ終わって織恵の家を出ようとした龍を呼び止める声が一つ。
 振り返るとそこにいたのは色白で面長な、黒髪の美しい女性だった。
 「昌代さん!」
 それは織恵の姉・昌代だった。


 「そう・・・織恵のためにお花を届けに・・・ごめんなさいね。」
 少し寂しそうな顔で昌代は言った。
 「いえ、いいんです。俺ものっぴきならない用があってしばらく島には戻れなかったんで・・・」
 「でもあの子、きっと喜んでるわ。ずっと龍君に会いたがってたから。」
 朗らかな笑顔で、昌代が笑った。
 と、
 「あら?何かしら、これ・・・」
 と、部屋の隅の鏡台の上にある、あるものに手を触れた。
 「あ!」
 思わず龍も声を挙げた。


 それはつややかな薄紅色に輝く、小さな貝殻だった。

 その時、軒先で風鈴がちりんと、暖かな風に揺れた。
 もうじき、夏が終わる。




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