夏草の影


軽快で、だけど変わることのない・・・淡々とした電車の車輪の音を聞きながら、
すずはそれまで過ごした日々をその音に重ねてぼんやりと思い返していた。

周りに見えるのは一面の草原とその背後にそびえる緑の山々。
さらに反対側には晩夏の海が空の碧を映して横たわっている。

・・・静養するつもりだった。
何年振りだろう、ここに還るのは。

・・・母亡き後、父に連れられて東京にやってきた。
確か中学を卒業した頃だったろうか。
そのまま高校、大学に進学して、あっという間に新聞記者の仕事について、すずは結局ここへ帰ってくる時間を見つけることができぬまま、今日までやってきた。
・・・都会の生活は、大人しく慎ましやかなすずを温かく迎え入れてはくれない。
ここへ戻って来たのも仕事、私生活の心労や疲労から逃避する場所を探してきたからに過ぎなかった。
決して懐かしんで還ってきたわけではないのだ。

既にこの田舎にもすずが帰る家はない。
唯、父の知り合いが下宿を営んでいて、しばらくは有給を利用してそこに滞在する予定だった。

やがて緑の地平に、小さな駅が見えてきた。
(帰ってきたんだ・・・)
すずは小さく溜息をつくと、電車を降りた。

青い空、照りつける太陽・・・
東京で見た物と何も変わらないはずなのに、何故かすずにはそれが優しげで、清々しい物に見えた。
(帰ってきたんだ・・・・)
再びすずは駅のホームを出、改札を終えて駅を出た。

・・・何も変わらなかった。
自分が出ていったあの日から、何も。
安堵と郷愁がすずの胸をくすぐる。
眼前に広がる、時代に取り残された片田舎をすずは見回した。

・・・と
すずの眼に、思わぬ物が飛び込んできた。

「・・・たっちゃん。」
すずの目の前に現れたそれは・・・
その人影は、そう呼び止められ、静かにすずを振り返る。
背の高い、がっしりとした体付きの細面の男だった。
少し日焼けした、細面の顔にかかる細い黒髪の間から見える、細く光る三白眼が、すずをとらえる。
「・・・すず!」
彼は呟くように言うと、すずに歩み寄ってきた。
「たっちゃん、お久しぶり。元気だった?」
親しげに話しかけるすずに彼は少し戸惑い気味に
「ホントに久しぶりだなあ、お前、よく俺だって分かったな。」
「だってたっちゃん、全然変わらないんだもん。
へえ・・・たっちゃんも、帰ってきたの?」
すると彼は少し押し黙って・・・
「ああ、やっぱり俺はこの町が好きだ。」
言ってぎこちなく笑った。

彼は・・・樹(たつき)はすずの幼なじみだった。
すずの隣の家に住んでいた、すずのひとつ上の青年で、すずは良く彼に幼い頃遊んでもらっていた。
彼には父がいなく、そのことで幼い頃は良く近所の子供にからかわれ、ことあるごとに喧嘩ばかりしていた。
話に寄れば樹の母は夫に捨てられてからというもの、酒浸りになり幼い樹と妹の世話もろくにしなかったらしい。
やがて樹が成長するにつけ、母とも折り合いが悪くなり、
ある日母と妹を残して上京、以来暴力団になったとか、色々噂が流れていたのだ。
「びっくりしただろ・・・やくざになったって聞いて。」
言って樹は小さく笑った。
その何となく悲しそうな笑みは、すずが幼い頃見た樹と、何も変わっていなかった。

やがて夕闇が静かに忍び寄ってくる頃に、すずは樹と別れて下宿に向かった。
「あらぁ、すずちゃんお久しぶりねえ、元気だった?
すっかり美人になったねえ。」
下宿の女主人が、温かく、すずを迎え入れる。
「おばさん、お久しぶりです。
これからしばらくお世話になります。」
「何言ってるの、アンタだったらずっとここにいてくれてもいいのにねえ。
さあさ、上がりなさい。」
顔に輝くような笑みを浮かべて、女主人はすずを奥に通した。
(帰ってきて良かった・・・)
静かにすずは心の奥でそう呟いた。

「今日ね、たっちゃんに駅前であったの。
元気そうだったよ、何にも変わってなかった。」
夕食時、すずは女主人に言った。
すると
「たっちゃんて・・・あの樹かい?あいつ、だって・・・」
「あのね、足を洗ってこっちに帰ってきたんだって。」
女主人はうなずいて
「へえ、じゃあ、あの噂は・・・」
それだけ言って女主人はまた「いいか」と呟いて台所に向かった。


その日も駅前で、すずは樹に出会った。
どうやら買い物の帰りらしく、買い物袋をぶら下げた樹の姿は、何だか昔の姿と妙にダブって見えた。
「そうだ・・・お前、今日、暇か?」
めずらしく、樹からすずに声をかけてきた。
幼い頃はいつもたつきの後ろをくっついてきたすずにとってそれは滑稽であり、そしてうれしくもあった。

「このへんの山の中にある川でな、まだ魚が釣れるんだ。
昔良く釣りに連れていってやったろ、覚えてるか?」
錆び付いた自転車に乗りながら山道を登り、樹が言う。
「うん、たっちゃんまだ釣りなんてやるんだね。」
その後ろに乗ってすずが答えた。
「このへんは岩魚が釣れるんだよ。
ガキの頃から折れ釘で針作って良くやったよな。」
言って樹は後ろを振り返り、
「お前、もう魚はつかめるようになったか?」
「うん、一人暮らししてるからお魚もさばけるようになったよ。」
「そうか、今度なんかうまいもん作ってくれ。」
自転車は坂道を滑るように滑走していった。

やがてまた夕暮れがやってきた。
「そういえばさ。」
今度はすずが切り出した。
「たっちゃん、今どこに住んでるの?」
すると樹は一瞬考え込むようなそぶりをして
「今も・・・あの家に住んでる。お前ん家の隣。」
「ねえ、おばさんと茜ちゃん元気?私、たっちゃん家、久しぶりに遊びに行きたいな。」
と・・・
「・・・だめだ。あの家にはもうお袋も茜もいない。」
すずは怪訝そうな顔をした。
「お袋は今施設に入ってるし、茜も上京した。
行ってもつまんないだけだ。」
思いがけずきつい樹の口調に思わずすずは黙り込んだ。
「そんなことより今晩暇か?
あのな、この近くに蛍が見れる場所があるんだ。
東京に帰っちまったら見れないもんだろ?
どうだ?」
すずはしばらく考え込んで
「うん、見たい。連れってってくれるの?」
樹は珍しく満面に笑みを浮かべて
「ああ。暗くなるまでもう少し、ゆっくりしてようか。」
言って、すずの手を引いた。
静かに夕日が地平に解けていった。


やがて闇が片田舎を静かに抱き込む。
「こっちだ。」
すずが樹に手を引かれやってきたのは小高い丘の上だった。
町を一望できるその場所は
「俺のお気に入りなんだ。」
樹が町を見下ろしながら囁いた。
「あ!」
すずが声を上げた。
空中に、ふわりと蛍光色の光が舞い上がった。
一つ、二つ・・・やがて数え切れないほどの蛍が二人の周りを乱舞しはじめた。
「すごい・・・」
「な?こんなの東京じゃ、まず見られないぞ。」
言って、樹は草原の上に寝ころんだ。
その横に、すずも腰を下ろす。
「なあ、覚えてるか?」
静かな口調で、樹が言う。
「お前がここを出てく時に、俺、この丘の下でお前を捜したんだ。
この下、すぐ線路だろ?で、そこに立って、車窓のお前を捜したんだよ。
その時もこんな感じで蛍が飛んでたんだ。」
・・・樹の言葉で、すずの記憶が蘇ってきた。
そう、あの夜はほんとに今宵のように、風もなく、静かな夜だった。
夜の線路沿いの草原に、夏草の影で蛍に照らし出された樹の姿が、ぼんやりと、だけど鮮烈に浮かび上がっていた。
「俺、本気にしてたんだ、お前が昔『俺のお嫁さんになる』って言うのを。
だけどお前がいなくなっちまっただろ、あの時どうして良いか分からなくて・・・」
すると樹が立ち上がった。
「なあ、俺、明日帰らなきゃいけないんだ。
だから・・・今度はお前に見送りに来て欲しいんだけど、良いか?」
言った樹の眼が揺れる蛍火にも負けぬほどに、鮮烈に見える。
「・・・うん、いいよ。」
「・・・ありがとう。」
それ以上、二人は言葉を交わさなかった。
ただお互いの小指を絡めたことが、二人の意思の表れだった。


その日の夕方、すずは樹を見送るため、駅に向かった。
発車時刻は6時半。
もう既に斜陽が寂れた駅を緋色に染め上げている。
と・・・
「悪い、遅くなった。」
手を振りながら、樹がやってきた。
「たっちゃん遅いよ、電車来ちゃうよ。」
すずに窘められて、樹はばつが悪そうに頭を掻いて
「行こうか。」
すずの手を引いた。

・・・温かい手だった。
幼い頃、良くつないだ樹の手。
せっかくの再会が、こんなにも早く幕を降ろすことがやはりすずには寂しく思えた。

やがて時間が来たようで、電車が地平からやってきた。
・・・何処へ行く列車なのだろう、行き先は斜陽に反射してよく見えない。
ドアが開く。
不思議なことに、その列車には誰も乗っていなかった。
ただ車内は斜陽を浴びて暖かな暖色に染まっている。
樹が、列車に乗り込んだ。
「じゃあ、元気でね。」
すずは樹のその温かい手を握って別れを告げた。
「ああ・・・。
すず・・・きっと俺、もう二度とお前に会えないと思う。
だからこれ・・・お前に持ってて欲しいんだ。」
言って樹はズボンのポケットから小さな包みを取り出した。
・・・黙って、包みを開けるすず。
「あっ。」
短く、すずが声を上げた。
中には指輪が入っていた。
「これ・・・」
言ってすずは樹の顔を見上げた。
・・・・と

・・・樹は泣いていた。
今まで唯の一度も、すずは樹が泣いたところを見たことがなかった。
どんなことがあっても、決して泣かなかったはずの樹が、今、目の前で泣いている。
「どうしたの、たっちゃん・・・?」
慌ててすずが声をかけると、樹はようやくゆっくりと頭を上げた。
「すず、ごめん、俺、お前に嘘ついてたんだ。
ごめんな、ほんとにごめんな。」
発車のベルが鳴る。
「俺、お前のことずっと好きだった。だから・・・だからどうしても会いたかったんだ。
今でも、ずっとお前のこと、好きだから。
だから・・・俺のこと、忘れないでくれよ。
・・・じゃあな。」
そう言った瞬間、ドアが閉まった。
「待って!!」
すずの声など聞かないように、電車は風のように走り出した。
そして・・・
今し方電車が出ていったばかりのホームに・・・
同じレーンに再び電車が入ってきた。
今度はたくさんの人が降りてきて、また何気なく発車していった。

斜陽のホームに一人取り残されたすず。
その手には今し方、樹に送られた指輪がしっかりと握られていた。

その帰り、すずは樹の家に寄った。
樹の家は何処か古ぼけていて、灰色のよどみが掛かったようだった。
所々傷んでいて、見ようによっては廃屋とも見て取れないこともない。
そう、人が住んでいると言う活気は一切感じ取れないのだ。
(たっちゃん・・・)
静かにすずは玄関の引き戸に手をかけた。
・・・と。
「すずちゃん?」
背後から声がして、思わずすずは振り返った。
「やっぱりすずちゃんだぁ。元気だった!?ほらあたしだよあたし!樹の妹の・・・」
「茜ちゃん・・・」
そこにいたのは樹の妹の茜だった。
随分あか抜けた感じがした女性で、樹とは違い背が低く、ふっくらとした顔立ちだったが、黒々とした細い髪と、
鋭い三白眼が彼女が樹の妹であることを物語っていた。
「元気だった?」
「うん、元気元気!!久しぶりに夏だから、ふらっと帰ってきてみたんだ。」
満面に笑みを浮かべて明るく茜が返す。
「今東京に行ってるんだってね。」
「そ!バリバリ勉強してさ、今カウンセラーやってんだ!」
「へえ・・・そうだ、茜ちゃん、お兄ちゃんとはもう会ったの?さっき電車に乗って帰っていっちゃったけど・・・」
すずが言うと、茜の顔色が変わった。
「兄貴に・・・会ったの?」
「うん・・・どうしたの、茜ちゃん。」
茜は俯いた。
そして・・・
「ははは・・・兄貴、すずちゃんに会いたがってたもんなあ・・・、それこそ、死ぬほど・・・」
「どういうこと・・・?」
すずが聞き返すと、茜は複雑そうな顔でうなずいた。
「兄貴ね、去年東京でやくざのドンパチにあって・・・死んだの。
その時にあたし、ここ出てってから初めて兄貴に会ったんだけど、すずちゃんに会いたいって言ってね・・・」

すずは言葉をなくした。
「あとね、これ、兄貴に渡してくれって・・・あれ?」
茜が財布の中を漁っている。
何かを探しているようだったが・・・
しかし、すずはそれを静かに察し、
「・・・もしかして・・・これ?」
先刻、樹から受け取った指輪を茜に見せた。
「・・・それ・・・!!
・・・すずちゃん・・・。」
言って、茜は押し黙った。
顔をしたに向けたまま・・・
そして・・・
顔を上げ、涙ぐんだ眼で茜は笑って見せた。
その悲しげな笑顔も何処か、樹に似ている気がした。
「ありがとう。兄貴は自分で渡したかったんだよ。
これできっと、まっすぐ天国に行ったと思う。」
それを受けてすずも・・・精一杯の笑みを浮かべて・・・流れる涙を拭おうともせず、
「よかった・・・最後にたっちゃんに会えて・・・。
たっちゃんの事、あたしもずっと、ずっと好きだったから・・・。
よかった・・・ほんとによかった・・・。」
二人は笑っていた。
大粒の涙を流しながらずっと、笑っていた。
それ以上、二人は言葉を交わさなかった。



そしてその晩、すずは急遽滞在を切り上げて、最終列車に乗って
東京に帰省した。

その列車の中・・・
あの丘の麓、無数の蛍が舞い飛ぶ中ですずは一瞬、
夏草の影で、樹が笑っているように見えたような気がした。

−終−


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